すーてき散人空の紙

北陸発、テキスト偏重、テーマは原則その時々、気分次第の旬刊ないし月刊、あるいはときどき不定期刊のブログです。

<span itemprop="headline">クルマの話を《13》 日本自動車博物館(小松市)訪問記</span>

クルマの話を《13》

日本自動車博物館(小松市)訪問記

バブル崩壊で幻のスーパーカーが…
▼通称バタバタと赤い和製ハーレーも
▼産業史が一堂に、国内屈指の規模
 

 連載の締めくくりに、石川県小松市にある「日本自動車博物館」訪問記を。
 ◆振り返ってみれば、わが国モータリゼーションの始まりを告げたのは、通称バタバタ、正確には本当の原動機付き自転車でした。自転車のペダルをこぐと小さなエンジンがバタバタと始動し走り出す。幼少の頃、近所のおっさん(親しみを込めて、誤解なきよう)が乗り回してました。やがて自動2輪(オートバイ)、T字ハンドルのまま後輪を2つにし幌を掛けたオート3輪、そして丸ハンドルの4

輪へと進化していく。簡単にいうと2・3・4、これがわが国自動車の歴史。日本自動車博物館には、時代をたどる2、3、4輪が一堂に展示されているんですな。

小矢部から小松へ

 ◆もともとは富山県小矢部市にあった。地元企業のオーナーが収集した大がかりな国内外クラシックカーのコレクション施設。北陸新幹線金沢開通の今年が、小松に移転して20年の節目の年とか。小生の場合、館内にたっぷり3時間あまりもいました。クルマの姿とともに次々、脳裏にある記憶、思い出のワンシーンが甦ってくる…‥。

 
2輪、3輪、4輪
 ◆バタバタは、やがてペダルがなくなって、スーパーカブが現れ、ラビットマークのスクーターで往診するお医者さんもいた。1963年、中学1年のとき、父親がピカピカの水冷800ccエンジンのファミリア(

マツダ)で帰宅してきた。中3のころ、日産の車名公募キャンペーンに応募した。もちろんハズレ。決定した車名は「サニー1000」。
 対してトヨタは、「プラス100の余裕」を強調して

カローラ1100ccを投入した。サニー1000を下敷きにしたずるい広告手法だと思いましたな、子供心にも。相手を否定するネガティブキャンペーンというやつですな。
 以後、サニー対カローラの対決、ずーとカローラ優勢。のちのち長く長く、この広告キャンペーンが尾を引いた?ようですな。ちなみにファミリアに始まった父親の愛車遍歴はサニー4ドアなどを経てそのうちギャラン(三菱)一辺倒となり、亡くなるまでギャラン党でした。
 これら、家族の記憶を喚起してくれる往年の車たちに、この博物館で再会できました。クルマは、家族の歴史でもあるんですな。

 以下、博物館で出合った印象的なクルマについて。

 ◆幻のスーパーカー

 知らなかった。このようなスーパーカーがあったとは。スバルならではの水平対抗12気筒エンジンを据え「道路を走れるF1」を目指した、バブル絶頂期の1989年製マシーン。第28回東京モーターショーに参考出品されたが、運輸省(当時)の形式認可をとらず、悲しいことに、コンセプトカーにとどまった。技術開発とは無縁のところで、スーパーカーの命運が決まったのです。とはいえ製造から25年後の今、博物館展示物として眺めても、丸みを帯びつつ地を這う車体は魅惑的です。  
 
 説明パネルによれば、JIOTT社というワコール傘下企業と、童夢(株)、スバルの三者共同開発で、車名は「ジオットキャスピタ」。ところが発表翌年にはバブル経済が崩壊した。開発にかけた年月と情熱の集積がもったいなく、惜しく、悲しく、そして、しっかりこのクルマの写真を撮ってきました。うち2枚を掲載します。

 ▼「陸王
 真っ赤な周囲を睥睨するような威圧は、辺りをはらうような風圧は、そしてこの図体はどうだ。排気量750cc、1957年製造。日本にもかつて、これほどのオートバイがありました。
 実は、日本ハーレーダビッドソンから社名を変じた陸王モーターサイクルが、造ったのがこの大型オートバイ、「陸王」なんだとか。そうか、「真っ赤な風圧」は、実は「ハーレー譲り」であったのか…‥。陸王は1960年に消えた。そういえば、同じ時期、メグロという大型オートバイもかつてありましたな。
 オートバイメーカーは、ホンダ、スズキ、カワサキヤマハとみな創業者の名字に由来するそうです。カワサキは川崎さん、ヤマハは山葉さんという名前から。ではメグロは? まさか、地名・目黒からではないでしょうな? カワサキはてっきり地名由来と思ってましたので。

《写真》上から
ジオット・キャスピタ、同後ろ姿。
通称バタバタの一台、ペダル部分に原動機が付いている。
真っ赤な坴王。

きょうは、これにて。