すーてき散人空の紙

北陸発、テキスト偏重、テーマは原則その時々、気分次第の旬刊ないし月刊、あるいはときどき不定期刊のブログです。

<span itemprop="headline">追加 焼酎ネーミング≪23≫「ちらん ほたる」</span>


追加 どうにも熱い、焼酎ネーミング
シリーズ《23》「ちらん ほたる」

◆ちらん ほたる◆
(鹿児島県・知覧醸造、芋)


◆歴史の記憶、重く優しい名称
◆散華した飛行兵が蛍となり‥
◆「小京都」の地から沖縄海域へ



 パッケージに、さりげなく、優しい流れるような字で「ちらん ほたる」と、それらしき絵とともに描いてある。商品棚に他と並んでいるのを見つけたとき、心臓がどきんとしましたな。あたりをはらうように、「ちらん ほたる」だけが際立っているように見えました。知覧の蛍‥‥。

 ネーミングを決めたとき、
ラベルが刷り上がったとき、出荷するとき、蔵元の思い、心境はどんなだったのでしょうか。
 
 飲み手は、杯を傾けるとき、
グラスを手にするとき、どんな感慨にとらわれるのでしょうか。一瞬、粛然となって、襟を正し、端座して威儀もただして‥となるのでしょうか。
 それほど、この酒の名称は歴史的に重たいのです。


 
蔵の名前は「知覧醸造」、工場は鹿児島県南九州市知覧町にある。したがって仮に、単に、醸造地を、あるいは蔵元の名をひらがなで載せただけであって、ほたるはほたるーーだとしても、それでも重たい。


 沖縄戦に、今も武家屋敷通りがあり薩摩の小京都といわれる九州最南端の町・知覧から、爆弾を搭載し片道燃料の特攻機が続々飛び立った。終戦5カ月前の1945年3月から少年、青年の飛行兵たちがー。
知覧平和特攻会館HPによると、石川の17人、富山の13人を含む総数1036人の若者が散華した。 


 終戦から5年後の1950(昭和25)年生まれは、直接的には「戦争を知らない世代」ではあるが、復員し帰還した父親の出征を通して“間接的に戦争を知る世代”である。
 大陸で軍用トラックとともに写る軍服姿の父親の写真、応召前に家族親戚一同と撮った若い父のセピア色の写真が、アルバムに残っている。長兄(伯父)はフィリピン戦線で戦死した。戦死公報の紙一枚が届いただけで、遺髪、遺品なにひとつなく、祖母
白寿で亡くなるまで長兄の死を信じなかった。「フィリピンのどこかで生きている」と。

 十代、二十代の少年、青年たちは爆弾を積んだ軍用機で、片道分の燃料だけで、沖縄に迫る敵艦隊めがけ出撃し、体当たりを敢行した。そして、散華した飛行兵は、出撃前につぶやいたとおり、蛍となって知覧に還ってきたー。
 「知覧の蛍」は、単なる蛍ではない。戦時の記憶が、世代によっては戦史の記録が一気に目の前に広がる、痛ましく悲しい言葉なのである。
 
 「ちらん ほたる」は、飲む側におのが有りようと姿勢の正しさを問うている、そして戦争という愚行について考えさせる、そんな酒に思える。

((終戦記念日の8月15日にあわせ、追加シリーズで取り上げました))

 きょうは、これにて。