すーてき散人空の紙

北陸発、テキスト偏重、テーマは原則その時々、気分次第の旬刊ないし月刊、あるいはときどき不定期刊のブログです。

<span itemprop="headline">焼酎ネーミングシリーズ《39》悪太郎、悪、極王道</span>

焼酎ネーミングシリーズ《39》

わが子同様に慈しみ、蝶よ花よと育てたはずなのに
ちょっと身を引きません? ちょっと構えてしまいません?
……ちょっと怖め、ちょっと強あたり、
でもやがて、純真無垢なんだから、一途なんだからと気づいてもらえる……
そんなネーミングかな?

悪太郎(鹿児島、相良酒造、芋)
◆悪(鏡文字で)AQ(宮崎県、王手門酒造、麦)
◆極王道(熊本、恒松酒造、芋)
………………………………

〇悪から善へ、狂言の教え
 丹精した焼酎を世に送り出すのにその名、悪太郎ですか。およそ世間からつまはじきされそうな、およそ芳しくない名ですな。「悪魔」君よりはましかもしれま

せんが。
 想起するのは、狂言の主人公「悪太郎。大酒くらいの暴れ者悪太郎が、眠っている隙に伯父に頭を丸められ、名を「南無阿弥陀仏」とされた。南無阿弥陀仏といえば六字名号、名号といえば絵像、仏像と同様にご本尊そのものを指す。善男善女が自分の名を呼んでは(名号を唱えては)手を合わせ頭を垂れ
て行く。名号の意味が分かるにつれ……、「元」悪太郎は、過去の悪行を悔い仏道修行に入ってゆく、というストーリー。
 短いこの物語から、人というものは、悪の極みからでも善の極みへ、180度変転できるのだ、変身できるのだということが読みとれますな。何か、分かりやすい悪人正機説みたいだな。
 と同時に、名付けには人の方向性を左右する秘められた力というか、マジカルなネーミングパワーがあることを教えてくれていると、こう感得できますな。 悪ガキ、悪童も「大人」になれば……。

 悪談義をもう一つ。
 立山連峰奇観「悪城の壁」をご存知か。称名滝に向かう途中、視界に入ってくるのだが、見上げると、天上界の存在が一枚岩の断崖絶壁をスプーンの腹で次
々こそぎ取っていくような……。浅間山溶岩流の奇観「鬼押出し」と同じように、人知をはるかに超えた天変地異の造形を、人は時に「悪」、時に「鬼」ととらえたと思えるんですな。
 「悪」は決して「ワルい」 だけの意味ではなく、とんでもない埒外の事象、とんでもないスケールの事象もまた意味したと、こう思えます。

…………………………
〇するめあたりめのノリで読む


 鏡文字の「悪」、こちらはもっと端的だ。
するめをあたりめ、あしをよし閉会をおひらきと言うが如
しのノリで読むといい。悪の逆は「良」でしょうから、悪の鏡文字は「良」であると。このラベルはそう言ってます。
 下に添えられたAQは、アクアラングのアク、トヨタのベストセラーカー・アクア、シャープの家電ブランド・アクオスのアク。水のこと。即ち、ラベル全体では、良い水を使った焼酎ですよとアピ
ールしている。謎解き、判じ物の世界ですな。
 それにしても、亜は左右対称だからいいとしても、心を左右逆に書くのは、なかなか手強いこと。幼児期の子は鏡文字などさもあたり前の如くに、難なく書いてくれる(!)のに。わが子のノートに、との字やほの字、んの字が鏡文字で続々出てくると、
ホント、とほほ…、んん? となりますな。 お宅もそうでしたか。なに、成長の、焼酎でいうなら成熟の過程の一現象だそうです。
 左に発して右に現れ、右に発して左に現る……脳神経システムの絶妙、、。。
………………………………

〇極王道 
♫どこが違う ♫順番が違う

「ごく」+「おう」+「どう」。

ええっと

一瞬息を呑んでしまいますな。まさか。よりによって極道の王とはこれいかに

 
違うんですな。ラベルをよく見てください。(♫どこが違う まだ比べてる~山口百恵さんの歌)
 3字の順番が違う。極王道です。
小さくルビが振ってある。「きわみ・おう・どう」と。 東映映画「極道の妻たち」を連想しなくてもよかったのだ。ほんに、極道、酒の世界に進出、でなくてよかった、よかった。

 どうせなら、漢字3文字を無言のうちに並べるのでなく、せめて漢字の間に送りがな「み」をきちんとはさんでほしかったな。
 さすれば、誤読し息を呑むこともなかったのに。おそらく、酒の注ぎ忘れもなかったろうに。

 焼酎づく
りの王道を極めるという意味なんでしょうが、あの道、この道、その道、どの道によらず、求道というもの険しいもの。箱根の山は天下の険、剣岳カニの横ばい、縦ばい。きっと縦バイの方がきついぞ、と。

 道草はここまでにして、それにしても「道を極める」という崇高な言葉の意味が、いったいいつ頃から、なにがどうして昨今のゴクドウの意味に変わっていったのか。
 辞書をい
ろいろ調べると、極道者とは「仏の道を、仏法を極めた者」を指したという。尊敬の念を込めて「道を極めし者」と言ったようなんですな。
 にもかかわらず、道は道でも道楽の道、放蕩の道にだんだんシフトし、堅気から遠く正反対の「極道」というイナス方向の尊称となったようなんですな。
 いつごろ
ら? 
 おそらく天然の「湊」が、近代的な「港」に変わったころから。港湾荷受けが大量雇用を生む一大事業となったころからでしょうな、任侠映画、ヤクザ映画から学んだところでは。
 
誤読回避の送りがな「み」が付いただけで、全く天地のほどの差が意味合いに出てくるんですな。くどいけれども「ごくおうどう」でなくて、「きわみおうどう」。王中の王のことですな。スポーツ界ならやはり大鵬キング・カズでしょうか。 もちろん、王さんも。

きょうは、これにて。
  ポパイに、ほうれん草
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