すーてき散人空の紙

北陸発、テキスト偏重、テーマは原則その時々、気分次第の旬刊ないし月刊、あるいはときどき不定期刊のブログです。

<span itemprop="headline">どうにも熱い、焼酎ネーミング シリーズ13</span>

 ふるさとの山、川、海…。酒のネーミングには、常道と言っていい素材、モチーフです。しかし、自慢したいのは我が郷土の自然ばかりではありません。郷土の偉人、先人もそう。敬愛の情を込めて、ダイレクトに人物名も登場してきます。今回は「小松帯刀」と「鉄幹」について。

既掲載は
(シリーズ12◆さそり◆もぐら)
(シリーズ11◆天魔の雫◆知心剣
(シリーズ10◆天孫降臨◆不阿羅王)
(シリーズ9◆晴耕雨読◆おやじの誇り) 
  (シリーズ8◆この地に天使が舞い降りた。 天使のささやき 恋あじ◆両思ひ)
(シリーズ7◆今も昔も焼酎は、西、岩倉 月の中◆二階堂 吉四六
 (シリーズ6◆虎の涙◆蔵人の戯れ)
(シリーズ5
◆いも神◆元祖やきいも)
(シリーズ4◆魔女からの贈りもの 魔法のくちづけ◆うわさのいい夫婦)
(シリーズ3◆
百年の孤独◆問わず語らず名も無き焼酎)
(シリーズ2◆銀座のすずめ◆とんぼの昼寝)
(シリーズ1◆六地蔵の夜仕事◆我伝直伝)


もともとはタチハキだった、佩刀だった
およそ正反対、龍馬とウマが合った
小松帯刀

(鹿児島・吹上焼酎、芋)

小松帯刀という名前、大河ドラマ篤姫』で知った人も少なくないはず。いわずもがな維新十傑の一人であり、維新の仕掛け人坂本龍馬が新政府の宰相候補に挙げた人物である。郷土の先賢の顕彰を願うネーミングと受け取れますな。


私的に言うと、帯刀(たいとう)と書いてどうして〈たてわき〉と読めるのか、ずっと首を傾げてきた。得手勝手な解釈で、すんなり納得できるようになったのは、実は大河ドラマの頃から。

帯刀は単に刀を
帯びる意だが、本来なら、「佩刀」(はいとう)という語が辞書に残るように、大刀(だいとう、太刀=たちともいう)は腰に「佩(は)く」ものであった。

たとえば、唱歌『箱根八里』。♪天下に旅する剛毅の武士(もののふ)、大刀腰に、足駄がけ~との一節があるが、「大刀腰に」の後には動詞「佩く」の連用形が隠れているに違いないのである。

つまり、元々は「太刀を佩く」から「たちはき」だったが、やがて「たてわき」と転化し、馬上合戦の機会の減少とともに、刀を金具で腰につるす「佩刀」は、腰の帯に差す「帯刀」の語で代替されるようになった。

たちはき→たてわき、佩刀→帯刀となり、端折れば、たてわき=帯刀となった、とこう解釈できるんですな。

ボトルにはタグがぶら下がっていて、幻の宰相小松帯刀として次のように記されている。
  『小松帯刀は龍馬を支援していました。亀山社中の設立や薩長同盟の締結。日本人初の新婚旅行と言われる霧島への旅行は両夫妻で訪れた事な
どに、二人の足跡を見ることができます』ー。

龍馬は土佐を脱藩して維新へ向けて東奔西走し、帯刀は藩家老の身のまま薩摩から画策し支援した。名前に従えば馬上の龍の土佐藩郷士、帯刀の知略の薩摩藩家老。およそ対照的だったからウマがあったのかも知れませんな。

名前ついでにー。生家は大隅半島に位置する喜入の領主「肝付(きもつき)」家。幕府の認許を待つまでもなく、苗字帯刀の出自だった。小松家の跡継ぎとならなければ苗字難解、名前も難読の、肝付帯刀であったかも知れません、これは余談ですが…。


ポーズも決めてきっと、どや顔
出身でなくとも縁があれば
●鉄幹●
(鹿児島・オガタマ酒造、芋)

  焼酎の「鉄幹」って、歌人の? 妻が与謝野晶子の? やはり!そうでしたか。でも、なぜ鉄幹先生が焼酎のラベルの中に居るのですか。晶子夫人は同道していないのですか。「鉄幹・晶子」というネーミングでも全然おかしくないのに…。

晶子=日露戦争前という時代状況の中で性愛を歌い明治の歴史に刻まれた「やわ肌の 熱き血潮に 触れもみで さびしからずや 道を説く君

」の作者。不倫愛を成就した女性ならではの情熱がほとばしってます。
鉄幹=歌誌『明星』の主宰者で、晶子はじめ石川啄木北原白秋ら幾多の才能を見いだした歌人

 もちろん当時の歌壇の地位は鉄幹が圧倒的に上でしたが、後世の今日、妻の方がよりはっきりと歴史の記憶に残っていますな。歴史には逆転ありの残酷さがあります。   

でも、ラベルの中の鉄幹先生、両手を帯に袖を風になびかせて、表情はきっと〝どや顔〟ポーズも〝どや立ち〟ですね。しかし、どうして、京都府出身の鉄幹先生が、薩摩川内市芋焼酎の銘柄になったのだ? 

来歴を調べて分かりました。
雑誌「改造」の編集長だった薩摩川内市出身の山本実彦に誘われて、薩摩川内市を訪れたことがあるのです。浄土真宗本願寺派の僧侶だった父の転勤で幼時、家族ぐるみ居住したこともあり、したがって、鉄幹には第二のふるさとに帰ってきたような感覚の夫婦旅行だったのでしょう。薩摩川内市にはわずか一泊でしたが、鹿児島滞在二週間に詠んだ歌の数々は帰京後、歌集「霧嶋の歌」にまとめられています。

ネーミングには、ときに蔵元の郷土愛がにじみ出てきます。薩摩川内市にとって鉄幹は大事な縁(ゆかり)のある歌人であり、蔵元は歌人の名をその掌中にそっと掬い上げたのですな。「鉄幹」の数滴を口に含んで詠めば、いつもより香り立つ歌が生まれるかも知れません。ひょっとして、才能を見いだしてもらえるかも。

きょうは、これにて。次回、シリーズ14で。